[ 貴方には敵わない ]




 溢れた血が地面を染めていく。
 足元はふらつくが、だからといって剣の構えを崩せば死ぬことになるだろう。
 耳を澄まし、神経を研ぎ澄ませ、次の攻撃に備える。
 
「はぁっ……はぁっ……」
 
 顔が痛む。
 口の端に伝う血の味にギリと唇を噛み締めた。
 敵の剣が顔を真横に裂いたが、あと一歩遅ければ目ごと抉られていたはず……油断など、今更!
 いや、反省なら後でいくらでもしよう。今は生き残ることを考えるべきだ。
 息が出来なくなろうと、足が言う事を聞かなかろうと、まだ死ぬわけにはいかない。
 荒い息の向こうを知れ。
 
「右ぃッ!」
 
 一瞬の揺れを逃さず、両手の剣を向けた。
 狙いを付けている暇はない。ただ、己の腕を信じて剣を振るう。如何なるときもそうして道を切り拓いてきた。窮地にあろうと同じことだ。
 一歩踏み出し、右手の剣で一閃。
 耳障りな叫びと共に飛び込んでくる獣人の喉元に光を受けた切っ先が届いた。
 僅か皮一枚の浅さではあったが、相手に怯えを与えるには十分。
 見逃してなどやるものか。
 左の刃を続けざまに打ち下ろす。
 今度は掠った程度ではない、確かな感触だ。肉を裂き骨まで達した剣を引き抜くと、獣人は呻きを上げて倒れた。ビクビクと震え、程なくして沈黙する。
 見下ろした私もそろそろ限界のようだった。
 味方の増援が来るまで、立っていられるといいが。
 
「エマ!」
 
 遠く、それともすぐ近くか。
 私を呼ぶ声は求めるものと違うのに、それでも思い出してしまう。
 戦場が似合わないあの人を。
 
 会いたい。
 
 
 
 
 
 
 目覚めると、そこは自室だった。
 一箇所だけ開いた窓から入る風が暗い朱のカーテンを揺らす。
 どうやら生きて帰ってきたらしい。
 
「エマ? 目が覚めたのかい」
 
 薄く開いた視界には目に馴染んだ男の姿があった。見るのは久々になるが、相変わらずの笑みに心が落ち着く。
 私の夫となった男は、武人の一族であるハニウェルには似合わない柔らかな雰囲気を持つ。貴族の次男坊で剣を取るよりも本を読み漁る方を好むような人間だ。よく婿入りする気になったものだと感心する。
 今も窓際の安楽椅子に腰を下ろし、分厚い本を手にしている。どうやら私が目覚めたことで読書を中断させてしまったらしい。
 
「無事で良かった。もう三日も眠っていてね」
 
 細い銀のフレームに指を掛け、軽く持ち上げる。
 眼鏡越しの視線は私にまっすぐと向かい、それに少し居心地の悪さを覚える。
 良くない意味ではなく、どれだけの時を共に過ごそうと情けないことに慣れないのだ。端的に言えば照れくさい。
 
「ひどい怪我だったから、肝を冷やしたよ」
「そうだ、怪我……!」
 
 顔を押さえる。
 当て布の下で疼く傷は顔の中心を水平に切り裂いたあの剣のものだ。
 ゆっくりと撫でると、残った傷跡が指に伝わってくる。
 その感触にぞくりとしたものが走った。怪我などいくらでもしてきたのに、顔に付いたこの傷がどうしようもなく恐ろしい。
 息を吸い、一気に布を外した。ピリと肌が痛んだが構ってなどいられない。
 
「エマ?!」
 
 直接触れて確かめる。
 まだふさがっていない傷は濡れた感覚をもたらし、盛り上がった皮膚は傷口のひどさを物語っている。
 あぁ、と胸の内で息を吐いた。
 久しぶりだというのに、何故このような傷だらけの顔で夫に会わねばならないのか。
 
「無茶なことをして……見せてごらん、手当てをするから」
 
 本を置いて立ち上がり、私の傍までやってくる。
 触れようとする手から逃れて顔を逸らした。
 
「見ないでくれ」
「どうして?」
 
 こちらの制止を無視して覗き込もうとする夫の無邪気な声に苛立った。
 何故わからないのかと詰りたい気持ちを抑えて、努めて冷静に言葉にする。
 
「醜いからだ……貴方の目には毒にしかならない」
 
 夫が今までの人生で見てきた美しいものの中に、私という異物をこれ以上投げ込みたくなかった。
 アスラムのために戦う道を選んだことに後悔はない。誇りと自信を持って私はこれからも戦場に立ち、アスラム候をお守りする。けれど、これはまた別の問題だ。
 見せたくない、このような醜い傷。
 戦場ならば堂々と立っていられるが、この人の前で同じようには振舞えない。
 
「ひどいことを言うね。僕はその程度の男かい」
「違う。私が……相応しくないのだ、貴方に」

 傷だらけの顔を両手で覆い、少しでも夫の目に入らぬようにした。
 結っていない髪はちょうどいい具合に顔の横に降りて、隠す手助けをしてくれる。

「顔を上げて、エマ。あまり自分を卑下しないでくれ。僕も時には怒るよ」
「だが」
「僕は戦場を知らないけれど、妻のことはよく知っている」
 
 指を一本一本解かれてしまう。
 決して力強くなどないというのに、何故だろう。いつもこの腕には逆らえないのだ。
 
「どんな傷も君を損なうことはないよ……エマ」
 
 その囁きの甘さに目を瞬く。
 全くなんという人を夫にしてしまったのだろうか。
 家のための結婚であったはずが、まるで望み望まれたように暖かい。
 
 
 
 貴方には敵わない。













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実は顔の傷を気にしているなんて萌えるじゃないか……ッ!
そんな一面を旦那にだけ見せていたらさらに萌えるじゃないか……ッ!
 
脳内設定を煮詰めつつ、包容力のある癒し系旦那様で落ち着きました。
眼鏡掛けさせたいがために加筆。(…
 
 
 
20090128初出 / 20080201改訂