[ おてんば姫 ]




 屋敷中を駆け回る。
 メイドさんたちにぶつからないように気をつけて、あとは物を壊さないように!
 父上は滅多に怒らないけど、母上からはよくお説教される。家の物を全てごみに変えるつもりかとか、ね。壊したものが高いものでも安いものでもそれは変わらない。
 だから、一応……めいっぱい気をつけてはいるんだけど。
 
「わぁっ!」
 
 カーペットに足を取られて、バランスを失う。階段の踊り場から勢いよく身体が飛び出した。
 この高さならどうにか受身が取れるけど……落ち掛かった方向を確認して緊急事態と頭の中で警鐘が鳴る。
 玄関の正面に飾ってある壷は確か侯爵様から母上の結婚祝いとしていただいた特に大事なものだ。
 これに傷一つでも付けたら、大目玉じゃ済まない。
 どうか、止まって……!
 
「おやおや」
 
 壷にぶつかるかと思った寸前、身体がふわっと軽くなる。
 あれ……?
 
「やぁ、僕のお姫様」
 
 恐る恐る目を開けると視界は柔らかな笑みでいっぱいになっている。
 私は父上に抱き上げられて、九死に一生を得た、らしい。
 
「父上!」
「危ないなぁ。確か今は剣の稽古の時間だったと思うけど?」
「母上が私を置いて出かけてしまったの! 屋敷じゃ相手になる人はいないし、しょうがないから走り込みをしてたんだけど……」
 
 ちらりと下を見る。
 あと少しで壊してしまうところだった壷は、つやつやと日光を反射して綺麗なままだ。
 
「元気が良すぎて、壷に激突するところだったわけだね?」
「……はい。ごめんなさい、父上」
「鍛錬なら外でしようね、家の中は危ない。壷も大事だけれど、それ以上に君の怪我が一番悲しいよ」
 
 壷から少し離れた場所に下ろされると、ぽんぽんと頭を軽く叩かれた。
 痛くないけど、父上が悲しそうに目を細めるから、胸の真ん中はズキズキと痛む。
 
「父上……」
 
 確かに母上は怒ると怖い。
 でも父上は怒らなくても、それがどれだけいけないことかをはっきりと感じさせてくれる。
 私も母上も父上のこういった目にはとても弱かった。決して感情的な態度じゃないのに、心の中に大きな波が生まれる感じ。
 
「……よーし。じゃあ僕がエミーの相手をしよう」
「え?」
 
 意外な申し出に私は目をパチパチとさせた。
 相手っていうのはもしかして稽古の?
 「遊んであげるよ」でも「お話してあげよう」でもない意味で?
 初めての出来事に頭がついていかない。
 だって父上は兵士じゃなくて、何だか難しい本を読んだり、兵法の研究をしたりと、ほとんど家の中で仕事をしている人なのだ。
 
「おいで、エミー」
 
 私の手を取ると、父上の書斎ではなく、中庭へと続く廊下を進んだ。
 途中、物置に寄って稽古用の剣を一振り持ち出す。
 ……本当に私の稽古の相手をしてくれるつもりなんだ。
 ドキドキとしながら、父上を見上げる。
 いつもどおりの穏やかな笑みからは、戦士としての覇気とか凄味とか……母上が放つあの雰囲気らしきものは見られなかった。
 
 
 
 
 空にはところどころ雲が浮かんでいる。
 いい天気だなぁと思い切り息を吸うと、自分の剣を両手に構えた。
 もちろん真剣じゃなくて稽古用の剣だけど、重さは真剣と変わらないように調整されている。使い慣れているだけあって、手によく馴染んだ。
 
「エミー、仕掛けてみて」
 
 父上は両手で柄を握る。
 まるでお手本の絵図を見ているような綺麗な構えだった。
 不安だった気持ちが一気に期待で埋め尽くされる。
 目の前にいるのは見慣れた父上なのに、どこをどう狙えばいいのか思い悩む隙のなさ。
 
「……」
 
 ごくりと唾を飲み込んだ。
 右手と左手にそれぞれ剣を持つ二刀流と違い、両手でしっかりと剣を制御する型は力強い斬撃と安定感が売りだ。振った刃が敵を薙ぎ払えば勝利も目前。けれど避けられてしまえば、その大きなモーションゆえに油断も生まれやすい。
 狙うならそこだけど、恐らく父上は自分からは動かないだろう。
 
 腹から息を吸い、覚悟を決める。
 稽古だなんて思わずに、真剣勝負のつもりで行かないと、私は一歩も動けなくなってしまう。
 やらなきゃ、やられるんだ。
 戦場はそのルールで出来てるんだから。
 
「たぁっ!」
 
 短い助走で父上の間合いに一気に飛び込む。上からの一撃目は父上の剣に受け止められたけれど、それは囮。
 身体の小ささを生かして脇に滑り降りると側面目掛けて本命の剣を打ち込む。
 
「はい」
 
 軽やかな声が聞こえたと思ったら、あっという間に地面に転がされる。
 剣の柄で私の刃は弾かれ、気付いたら身体が浮き上がっていた。
 左手の剣は草の上に跳ね飛ばされ、かろうじて右手にだけ剣が残っているけど、緩い握りでは反撃に間に合わない。
 大きな影が降りてきて、私は信じられない面持ちで真上を見つめる。
 
「チェックメイト」
 
 顔の横に剣を突き立てられ、心臓から送り出された血液がぞくりと冷えた。
 本当の本当に、ここが戦場だったら、私、どうなっていたんだろう。
 
「考え方は悪くない。でも、剣だけ追ってたら駄目だよ。人の身体は全て繋がってるんだから、全体の動きを知って」
 
 父上は勉強を教えてくれるときと同じように優しい口調で講義する。
 人の身体は繋がっている。
 右の剣を振るうには右手の力だけでは足りない。足を踏み込み、腰を捻り、全身のばねを剣に伝える。
 それが繋がっているということ。
 
「父上、もう一本!」
 
 言葉の意味を噛み締めて、今度は父上の動きに集中する。
 私の剣の軌道に合わせて一歩引いたところを狙い、地面に突き刺した剣を支柱として蹴りを繰り出した。圧倒的なリーチ差があるからこそ、距離を少し稼ぐだけで攻撃の命中率はグンと上がる。達人であればあるほど無駄な動きを嫌い、回避距離をギリギリのところに取りやすい。父上だってこういった動きには付いていきにくいはず。
 
「いいね」
 
 会心の策だと思ったのに、それも読まれてしまい、足を取られてまたも転ぶ。
 そんなことを何度も繰り返しているうちに、息が上がってしまった。
 
「はぁっ、はぁっ……ち、父上って強かったのね。私、驚いちゃった」
 
 髪に付いた葉っぱを振り落としながら私は上半身を起こした。
 
「いいや、僕は強くないよ。敵を倒す力がないからね」
「でも」
 
 実際文字通り倒されている。
 前進していた力が自分に跳ね返ったように感じ、次の瞬間には地面とお友達だ。
 
「本当だよ、エミー。古傷があるんだ。僕の剣を受ければどれだけ非力かわかる」
 
 怪我の話は初耳だ。言われてみれば父上は私の攻撃を捌いただけで、打ち込んでこなかった。
 そんなに弱い剣だなんて思えない迫力に私は完全に飲まれてしまって、結果青空を見上げる羽目になったわけだけど。
 
「エミーの相手もすぐに出来なくなるだろうね。君の才能は素晴らしい……さすが僕らの娘だ」
 
 父上の大きな手が目の前に差し出され、私は少し照れくさく思いながら自分の手を重ねる。
 助け起こす力は柔らかくて、立ち上がるのに苦労はなかった。
 
「ねぇ、父上も母上のように戦いたかった?」
 
 騎士として私の憧れでもある母上は、アスラムでは有名な武人だ。侯爵家の嫡男であらせられるダヴィッド様の覚えが高い(簡単に言ってしまえば、懐かれている)のもあって、将来は四将軍の座に着くのではないかと噂されているのも知っている。
 そんな女騎士を妻とし、戦うに赴く母上に代わって留守を守る父上も本当は戦場への思いがあるんじゃないか、と初めて考えてしまった。
 
「うーん……どうかなぁ。だって戦場にいたらエマの帰りを待つことも、こうしてエミーと過ごすことも出来ないだろう? 僕は学問も好きだし、今の毎日に不満はないよ。剣を使わずとも守れるものはあるのだからね」
 
 そう言って私の顔に付いた汚れを丁寧に払う。
 確かに私も父上にはこうしてそばにいてもらえるほうが嬉しかった。













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エミーを「僕のお姫様」と呼んで欲しいんだ……!
 
 
 
20090213