[ 朱の果実 ]




 一日の務めを終えて、部屋を退出したエマはゆっくりとした足取りで廊下を進む。
 家に帰るのが少々面倒だった。体力的な意味ではなく、度重なる縁談話で、だ。
 当主が急逝して、家を継いだのが遠い昔のことのようだ。成人の儀を執り行う前だったために本来の順序が崩れ、喪が明けたところで旅に出ることが決定してしまった。
 そして帰還した後は結婚だ。慌しいことこの上ない。
 成人の儀の前に夫を決めておきたいというのが家の意向だったが、出発の日まで三ヶ月もなく、その短期間で生涯の伴侶を決めろと言われても困ってしまうのがエマの本音だ。
 もちろんハニウェルの当主として跡継ぎを産まなくてはならないのはわかっている。アスラムの武人なら確かに強い血統を次代に残せるだろうし、申し分ない身分の者との縁談ならば謹んで受けるべきだ……それもちゃんと理解している。
 エマは眉を顰めて先日の男を思い出す。
 戦場なら頼りになる戦士だろうが、自慢話以外の話が出来ない男はごめんだった。かつての武勲とやらも『拝聴した』ものの、まるでエマには無理だろうと言わんばかり。腹が立って思わず勝負を申し込んでしまい、勝利と同時に縁談もご破算だ。
 しかもそれが初めての話ではない。エマは縁談相手のほとんどをその剣の腕で叩き伏せてきている。
 先日はついに主君であるアスラム侯爵の耳にまで入ってしまった。
 侯爵はエマの武勇伝を楽しんで笑っていたが、その笑みも永遠に続くものでもないだろう。
 どうしたものかと思案しても良い考えは浮かばず、今日も家で待つであろう縁談話と向かい合わねばならない。
 
 
 階段の途中で足を止める。
 窓の外、夕日に赤く染められた景色は雄大だ。影が長く伸びて大地に寄り添うように、エマもまたアスラムに寄り添い、この国のために力を尽くしたい。
 だから、夫探しなどに時間を掛けていられない……どこかでひょいと拾えるものならいいのに、とエマはため息をこぼした。
 
「あ!」
 
 若い男の声にエマは視線を階下に向ける。
 砂色の髪をした眼鏡の男が軽い足取りで階段を上がってくる。
 勘違いでなければ、自分に近づいてきている。
 目の前までやってきた男は片手を上げて、やぁ、と声を出した。
 それが挨拶なのだと理解するのに数秒を要し、眉を顰めながら会釈を返す。
 
「こんにちは。君がエマ・ハニウェル?」
「そうですが……」
「あぁ、やっとお会いできた。初めまして、僕はレイモンド・ウィローと申します」
 
 初対面ならば知らない顔も納得だ。
 どこかで聞いたような名だが、喉の奥に引っかかるほどのものではないようで、掴み損ねた記憶は霧散する。
 
「待ち伏せのような真似をして申し訳ありません。城勤めだと伺っていたものですから」
 
 人好きのする笑みを浮かべる男の身なりは優美なものだ。少し着崩してはいたが、だらしないわけでもなく、あくまで貴族の服装だと感じさせる。
 体つきは細身で、指も繊細そのものだ。戦ではなく政に携わっている仕官かもしれないが、だとしたら尚更エマに会いに来る理由が浮かばなかった。
 
「失礼ですが、私に何かご用件でしょうか?」
「え? ……聞いていませんか?」
「行き違いかもしれませんが、私の方には何も」
「おや」
 
 レイモンドは少し目を細めて……しかし柔和な表情はそのままに考え込む。
 
「おそらく連絡すらなかったということでしょう。あの方も人がお悪い」
 
 一人でなにやら納得してしまったらしく、レイモンドはすぐにエマに向き直った。
 
「えぇと……実はエマさんに求婚に参りました」
 
 挨拶と同じような響きで、思ってもみない言葉がその唇から紡がれる。
 求婚。
 頭の中で反芻してもエマの理解の範疇に入ってこない。
 
「縁談相手を片っ端からのしているそうですね。戦場での噂も伺っておりましたが、それほどとは」
 
 続いた台詞に意識がすぅと冷める。
 このひょろりとした貴族が何を聞いたのかは知らないが、噂などで近づいてくるなどろくな者ではない。
 エマはそう結論付けて、腰の剣に手を添える。
 
「では、貴公も地べたに這うのがご希望か?」
「それも悪くありませんが、僕は剣が扱えませんから」
「フン、奇妙なことだな。ウィローといえば先日の戦で功を上げたはず」
 
 記憶の種を探り当てたエマはにやりと笑う。
 アスラムの防衛を任じられたために出陣することはなかった戦……確かそこで敵の首を取った者がウィローという若い戦士だったと聞いている。
 
「ご存知とは光栄……ですが、それは兄のことでしょう」
 
 するりと伸びたレイモンドの指は剣に添えたエマの拳に重ねられた。
 避けることなど造作もなかったはずなのに、気付いたときには柄を握る手が暖かな感触に包まれ、殺気立っていた気持ちも消え失せてしまった。
 
「……僕は文字通り、剣を握れないのです」
 
 重なったレイモンドの拳は軽い力で押さえるのみだ。
 振り払うも押し戻すも容易い。
 見るからに優雅な男であるが故に、女性相手だからと力を抜いているのかもしれない。しかし本当に握る力すらないのかもしれない。
 男の顔を見つめても、穏やかな表情から真実を読み取ることは不可能だ。
 試しに重ねられた指を振り解き、剣を向けてみようか……頭の片隅に過ぎったが行動には移せない。
 『扱えない』は人を気にした対外的な言葉、事実は剣を振るう腕が『壊れた』。
 もし本当なら戦士としては致命的だ。剣が握れなくなったのが自分だったらと思うとぞっとする。
 
「もしかして、今の言葉を気にされましたか?」
「……っ」
「困ったな……君にそんな顔をさせたいわけではないのに」
 
 覗き込む瞳が悲しげに揺れて、暖かな手の平がエマから静かに去る。
 けれど彼が残した熱はじわりと残り、まるで伝染したかのように頬までも同じ温度になった。朱に染まったことを自覚して、目を逸らす。
 
「僕は剣を取れないこの身を恨んだ事はありませんよ。却って勉学に使う時間が増えたと喜んで呆れられたくらいです……だから、どうか笑ってください」
「……レイモンド殿、笑えと簡単に言わないでいただきたい」
「気に障りましたか」
 
 男に触れられたくらいで情けないと思いながらも、身体の反応は収まらず、困惑を隠し切れない。
 妙な息苦しさすら覚えて、エマは右手で胸を押さえる。
 圧迫されているわけではない。目の前の男は先程より一歩下がった距離を程よく保っている。
 なのに、呼吸の仕方を忘れたかのように、酸素が足りない。
 
「そうではなく……私には難しいとしか」
「では、次にお会いするときには自然に微笑んでいただけるよう頑張らなくてはなりませんね」
 
 目前にあるのは甘い果実だ。
 正体のわからぬそれを口にしていいものか迷ってしまう。
 エマは伸ばしかけた指先を宙に遊ばせ、目を伏せた。


















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名前出さずに書くことに限界を覚えたので、今回より名前出しました。
さすがにこの状況で自己紹介しないのはないだろ……!
■レイモンド・ウィロー(旦那)
エマに呼ばせたらキュンと来そうな語感は何かなーと模索した結果これに落ち着きました。
苗字はどうやら「柳」のことだそうで、イメージ的にもちょうどよかった。
 
 
 
20090616