[ 月夜に杯 ]




 正直、トキオには全く信じることが出来なかった。
 まっすぐに向けられる思慕の情。
 殺意、とか、怨恨、とか、そういう負の感情ならば、慣れたものなのだが。

 酒を傾けながら、月明かりの下、何度目かのため息をつく。

「やぁねぇ、いい年した男が月見てため息なんて。湿っぽいったらありゃしない」

 黒衣を風に吹かれたミレーネが酒瓶を片手に背後の木に寄りかかっている。
 既に出来上がっているらしく、少々足元がおぼつかない。

「何を考えていたのか、当ててあげましょうか?」
「余計な世話はいらん。放っておいてくれ」
「フェリスのことでしょう」
「……放っておけと言っているだろうが」

 ミレーネは鼻を鳴らすように短く笑うと、ゆぅらりと歩みを進める。

「いいことじゃない。誰かに愛される……こんな素敵なことってないわよ? しかも相手があれだけ可愛らしくて、性格もよろしくて、心優しい女の子とあればね。戦いもお手の物だし、頼もしい限り。あはは、羨ましいくらいよぉ」
「別に、俺はそんなこと望んじゃいない」
「嬉しいくせに、素直じゃない男ね」
「……俺は、ただ」

 トキオは言葉を切り、顔をしかめると底に残った酒を一息に飲み込む。
 口に出すことを止めてしまった言葉は、腹の底で酒と混ざり合ってしまったらしく、ミレーネが待っても続きは閉ざされたままだった。
 初めからトキオが恋の悩みなど……それ以外の悩みもだが、打ち明けてくれるなどとは思っていない。商売柄、人の悩みを聞くのは得意であったし、喋らせる手管も持っていたが、あっちはあっちで喋らぬ技術を持っている。よくは知らないが、「忍者」とはそういうものらしい。
 自らも他者も語らぬ男に何を見たのか、彼らが守り共に戦う少女は次第に変わり始めた。
 少女が変化するのはいつも瞬間の繰り返しだ。太陽の眩しさに目を逸らし、地上に目を戻すまでの間にすら、変わる。
 薄い膜で覆って、見えぬよう、破れぬよう、細心の注意を払って、彼女は彼に恋をした。口に出すことはなく、行動にも表さず、ただ芽生えた思いを運命の導とするように、今もひっそりと抱き続けている。

「あの子はたぶん、ひとりぼっちで寂しかったのね。頼るものなく、友もなく、気付いたときには戦うことしか道がなかった、そんな子だから」

 それは、トキオ自身にも覚えのあることだった。
 孤独であることを好んだが故に、全てを捨てたとき、本当に何も残らなかった現実。そのとき初めて自分の存在意義のなさに気付いたのだ。戦人として以外の「トキオ」はあの国に存在しなかった。戦争という場が、彼の幻影を垣間見せていたにすぎない。
 振り払うように自らを鍛え上げることだけを考えて進んできた旅路。
 果てに出会った少女は確かに自分に似ているのかもしれなかった。

「だから幸せなのよ、とても。私やあなたが側にいるということが」
「それは、わかっている」

 誰に言われるでもなく、フェリスと共に戦うことを誓った。
 本当は誰かの意志に操られているのだとしても、構わなかった。他者と共にあることが、何よりも自身の存在の証になることに気付いた今は。
 フェリスもまた、自分やミレーネと共にあることで自己を見失わずに前を見ていけるのであるならば、何も迷うことなどない。

「わからないのは恋愛感情の方かしら」

 ミレーネは空になったトキオの杯に酒を注ぎ込み、自らは瓶の口から直接喉に流し込んだ。
 ごくりと飲み込む音は、色香を振りまくスパイスだが、今の彼女は目の前の男を誘惑する気などさらさらない。

「……俺でなくてもいいはずだろう」
「馬鹿な男。みんなそう思うのよ、どうしてこの人じゃないと駄目なのか、この人以外でもいいはずなのにってね。それでもどうしようもないから、恋をするの」

 手の中で月を映した琥珀が揺れた。
 フェリスの瞳に似ているように思え、トキオはわずかに目を細める。

「確かにあなたは最も身近にいる異性……それは大きなポイントね。憧れかもしれない、ただの安心感かもしれない。そんなことフェリス自身にもよくわかってないんじゃないかしら。あなた自身がフェリスをどう考えていいのかわからないのと同じ」

 穏やかに吹く風が、タイミングを計ったかのように一度だけ、木々を強く揺らした。
 横目に見た森は突風にも表情を変えず、夜の闇に溶けているだけだ。

「ねぇ、結局あなた自身はどうなの? あの子が好き?」

 意地悪く問いかける。
 答えなどわかっているのよと、彼女は顔に浮かべた笑みで告げていた。

「……俺は、彼女を守り、彼女の旅に力を貸すだけのこと。それがただ一つの目的だ」
「そう?」
「今の俺にそれ以外何が出来る!」

 吐き捨てるように口にした言葉は、唯一彼の本心の欠片とも思えるものだった。
 酒を乱暴にあおった腕を振り下ろして、杯を暗緑の木々の間に投げ捨てる。
 ガサリというざわめきの中に消え去ったあとを睨み付けもせず、トキオは宿への道を戻り始めた。

「森にゴミ捨てちゃダメよぉ、トキオ」

 去っていく背中へからかうように言葉を投げかけるが、もちろん応答はない。
 期待などしていなかったから、ミレーネは木に寄り掛かり、再び酒盛りをたった一人で始める。
 美しい月と髪を揺らす風と、最高にいい女。
 これだけ揃えば、酒などいくらでもうまくなる。特に最後の一つが重要。
 くっくと笑いを口に含んで、今夜は自分の美貌に乾杯することにした。
 そして、彼の帰りをカーテンの隙間で待つ妹のように愛おしい少女のために。
 杯はないから、瓶を軽く持ち上げて月の端にかちりと合わせる真似をする。

「なんて不器用に生きているのかしらね」

 仮初めの身体には似合わない台詞かしら、と思いながら、ミレーネは月に囁いた。








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こんなエピソードもあってもいいんじゃないかと。
今年は10周年だし隠れトキフェリストさんが出てきていいんじゃないかと思います。
(隠れようにもいないだろ……!)



2005.7.23