[ アクココロ 05 ]



 思ったよりも、空は蒼に近かった。
 あの色は黒と呼ぶべきものなのだと、もう長いこと信じていたのだが。
 ほんのりと辺りを橙に照らす街灯が点在する町だからか、星空を見上げるのが自分一人でないからか。
 二頭の獣は称賛を隠し得ない緻密さで気配を殺し、傍らに立つクローディアはその身体に生命が息づいているのか疑問に思うほどまっさらな存在となっている。野生の獣と暮らしていたから、という理由だけでは納得しがたい。これはもう、一つの技術だ。
 一体どこで生まれ、どこで暮らし、どのように生きてきたのか。
 無用の言葉を吐かない娘に心地よさすら覚えながら、一方では『知りたい』と思っている。
 その口唇を開かせ、持つ言葉の全てを目前に晒け出させたい。
 興味本位。
 おそらく、そうなのだろう。
 腕のいい冒険者などと称されるまでに世界を旅しながら、彼女のような存在に会ったことがなかったから。
 得難い財宝の噂を聞きつけては飛び込んでいくのと、同じこと……なのだろう。
 
「昼間と違って、静かね」
「そうでもない」
 
 囁き声が壁に染み込んだ直後に、衣擦れと靴音が辺りに反射しだした。
 音の出所はグレイでもクローディアでもない。
 
「……」
 
 来た、ということを見合わせた目で互いに確認する。
 息を潜めた冒険者の一団に気付くことなく、黒い影は真夜中の広場を真っ直ぐに突っ切っていく。
 厳かな儀式を思わせる悠然とした歩みは一度として止まらず、油の切れた古びた扉が開き、再び閉じられたその間に初めて途絶えた。
 
「やはりあそこか。ろくでもない町だな」
 
 平和で穏やかな表向きのメルビルは夜の間は幻だ。
 闇の者が我が物顔で徘徊する陰鬱で薄汚い悪夢が現実に取って代わる。もしかしたらその悪夢こそが真の姿で、堕ち行く帝国の未来が宵闇に紛れて、あの扉からやってくるのだろうか。
 
「さっさと片付けるか」
「えぇ」
 
 獣を連れ立ち、先を行った赤い闇を追う。
 
「……っ」
 
 そこに流れる空気にクローディアは顔を顰めた。歩みまで止めなかったというのは誉めてもいいだろう。
 カビ臭さと、モンスターにまとわりつく腐臭とが混じり合い、先程まで気にも留めていなかった外の空気が何とも恋しくなる。
 犯罪者だけでなく数々のモンスターをも呼び込んだ地下下水道は、いくら警戒しても足りないほど危うい。戦い慣れないものが入り込めば、あっという間に背後から襲われる。
 追っていることに気付かれて、赤い衣の邪教徒に逃げられるわけにはいかない。だからと言って、モンスター達が見逃してくれるという理由にもなるまい。
 申し訳程度の灯りに照らされた通路は広くなく、逃げ進む方が面倒が大きそうだった。つまり、どんなに急いでいても……急いでいるからこそ、戦いは避けようもない。
 
「おびき寄せて、仕留める。時間は掛けるな」
 
 グレイの言葉にクローディアは頷いて、手にした弓に矢を番えた。
 進行方向にいるモンスターは角まで誘い出し、そこで一気に殲滅させる。出会い頭にぶつかるよりもこちらの準備が出来ている分、遙かに手早く済む。
 そうして数体のモンスターを断ち切りつつ追っていたが、三つ目の角でついに影を見失った。
 
「どこかに折れたか」
 
 気が付けば響いていた足音も止み、耳に届くのは水の流れの反響ばかりとなっている。
 獣らしくシルベンが邪教徒の跡でも嗅いでいないかと見下ろしてはみたが、気高い銀の狼は薄汚い匂いになどまるで興味がないらしく素知らぬ顔で(彼女に表情があるのなら、きっとそんな感じだろう)そっぽを向いていた。
 頼るつもりなど毛頭なかったが、それでも少しは腹が立つ。
 
「シルベン、あそこね?」
 
 クローディアと獣たちを残して、先を偵察しに行こうとしたグレイをクローディアの囁きが止めた。
 彼女が指差した先の壁に一瞬長い影が映った。すぐ消えたのは、その先に消えたから、と考えるのが妥当か。
 そっぽを向いたと思った狼は、クローディアには敵の居場所を伝えていたらしい。
 
「グレイ、早く」
 
 鋭い瞳でグレイを一瞥して、シルベンは先頭切って駆けていく。
 チッと舌打ちし、腰にした刀に手を掛けた。
 鷹揚で力任せの熊ならばともかく、この不可解な狼とは反りが合いそうにもない。
 
 消えた先にあったのは扉だった。
 もっと奇怪な仕掛けでもあるかと思っていたが、何の変哲もないありふれた扉だ。年代物であることと、やや腐りかけた縁が唯一それらしいものだろうか。
 地下下水道入口の扉と違い、こちらは音もなくスムーズに開く。
 目前には暗闇。
 目を凝らし首を左右に振って辺りを確認すると、仄かに青白い……炎の色とは違う、冷たい光が照らしているのが見えた。
 そちらへ向かって近付いていくと、人の囁きも聞こえてくる。不快で、ざらざらとした声は一人二人ではなく、何人もの人間がその場にいることを予想させた。
 加えてこの匂い。
 香でも焚いているのか、扉の内側では下水道に充満するあの臭いがない。と言っても、良い香りとは口が裂けても言えないような、独特の臭気であることに違いはなかった。何もかもを混ぜた、悪趣味さをまき散らしているようなものだ。
 言葉は発していないが、クローディアも柳眉を寄せて不快を示し、袖口で目以外を覆っていた。
 
 光は薄い布地の隙間から洩れていた。
 覗き込むと、祭壇が真正面に見える。青い炎が揺れ、サルーインの徒が大げさな身振りで祈りを捧げている。
 息を殺して神殿内に滑り込むと、光の届かない壁沿いに移動し、祭壇の四方を固める柱に身を隠した。
 
「偉大なるサルーインよ!」
 
 狂気に踊る甲高い声で赤い装束の邪教徒は神官のようだ。その背後に控えた男達はいずれも漆黒の衣を纏い、その祈りに恍惚としている。
 薬を与えられたか、術でもかけられたのか、生け贄にされた娘は台の上に手を組んで寝かされ、身じろぎもしない。
 
「この娘の若き心臓を捧げます。どうか我ら僕の願いをお聞き届け下さい!」
 
 どんな願いか知る気も起きないが、サルーインが何を叶えてくれるというのだろう。それもたった一人の人間の心臓の代価に?
 神々の戦いがお伽噺か現実かはともかく、どうせ人間を虫けら程度にしか思っていないはずだ。古今東西、悪神とはそういうものに決まっている。善神とて、どの程度人間を厚く加護しているのかわかったものじゃない。
 彼らが気付く素振りも見せないのは、この儀式にすっかり見入っているせいもあるだろう。
 集中力はご立派なことだが、背後を簡単に取られているようではまだまだ甘い。
 
「剣を!」
 
 神官が片手を真横に広げると、傍に控えていた黒装束の男がその手の内に儀式に似合いの装飾を施された短剣を落とす。
 
「やめろ」
 
 一歩進み出た神官の足をグレイの鋭い声が突き刺す。
 シィンと静寂が広がったが、それも一瞬のことだ。
 全員がまるで計っていたかのようにタイミングを合わせて振り返り、同じような動作で構えを取った。
 
「尊き儀式を妨げるとは、何と愚かな! 皆のもの、こやつらの血をサルーインに捧げよ!」
 
 ぎらつく短剣で空を切り、神官は高々と命じた。
 
 一、二、三……取り巻きは全部で四人、中心となる神官が主犯と見て間違いない。
 武器らしいものを手にしていないのを見ると、全員術士なのだろう。サルーインの徒であれば、使うのは邪術。モンスターと信徒以外習得する方法はないとされている。
 距離をものともしない術士相手では、後衛として弓を構えるクローディアであっても守りきれるか微妙なところだ。
 出来るだけ早く、技を惜しまずに殺すしかない。
 
「俺は周りから落とす。援護は任せる」
「わかったわ」
「余力があれば神官を狙え」
 
 手短に指示を出し、刀の柄を握り直す。
 
「自信の程、見せてもらおうか」
 
 グレイの最後の呟きを聞き取ったらしく、シルベンは唸り声をあげて飛び出した。
 ローブに隠れた首筋に噛みつき、赤い布地が飛び散る血のように空を舞う。
 傷は浅かったようで致命傷とはいかず、神官は術の構えを崩してよろける。追撃すべく足首に食らいついたが、体勢を立て直した神官に至近距離で反撃を受けた。
 素早く身を引いたものの避けきれず、バチバチと身体を包む閃光にシルベンは呻き、ばたりと倒れ込む。
 
「シルベン!」
「慌てるな!」
 
 一人を切り捨て、グレイは一喝する。
 
「お前が飛び出して何になる! すべきことをしろ」
 
 駆け出そうとしたクローディアはグッと身体をその場に留め、弓を強く引いた。
 しかし、心の動揺が現れたのか、矢は神官から逸れ、代わりに背後にいた信徒に命中する。
 
「……っ」
 
 目標を誤ったことにクローディアは蒼白した。結局シルベンが傷ついたことの動揺からは回復できていない。
 その隙を神官は逃すことなく、術を放つ構えに入った。
 
「クッ、間に合わん……!」
 
 神官とクローディアの間に身体を入れようにも二人の信徒がグレイの行く手を阻んでいた。例え二人同時に切ったとしても、その頃には彼女の悲鳴が響くことになる。
 ブラウもまた似たようなものだ。目の前の敵を蹴散らし突進したところで間に合わない距離にあった。
 
「グルルル……」
 
 シルベンの低い唸りに神官の動きがやや緩慢になった。
 もう立ち上がらぬとでも思っていたのだろう、目を見開いて足元の獣を見つめている。
 まとわりつく電気を払うように身体を震わせると、シルベンは鋭い爪を掲げて飛びかかった。
 本能がそうさせるのか、獣は攻撃の際に急所を狙う。咄嗟の攻撃のように見えても、それは人の時間とは異なる。彼らは確実に狙うべき場所を見定めているのだ、瞬きの間に。
 シルベンも今度は違わずその首を掻っ切り、悲鳴はごぽごぽという血の溢れでる音の向こうに消えた。
 
「……さすが、と言ったところか」
 
 残っていた信徒を片付けたグレイは、刀を鞘に収めた。
 血に濡れた、美しい獣はまっすぐと守るべき娘の元へ歩み寄る。
 
「シルベン……ごめんなさい、痛かったでしょう?」
 
 シルベンはクローディアの身体が血で汚れないよう、まだ綺麗な銀の毛でそっと擦り寄った。
 心配はいらないと、ただそれだけを伝えるために。
 
 まただ。
 シルベンを撫でるクローディアは人間には介入できない、心を預けた者だけに許す空気を纏っている。
 例え触れることが出来なくとも、視線だけはその場に囚われてしまいそうで、グレイは瞬きを繰り返した。瞼の裏の暗闇がクローディアと自分とを何度も分断する。
 妙な気分だ。獣と等しくありたい、など……馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 
「……う……ん……」
 
 台の上の娘が意識を取り戻す。
 ようやくクローディアから視線を外し、グレイは目覚めた娘に近付いた。
 
「大丈夫か?」
「ここ……どこ? お父ちゃん!」
「お前は宿屋の娘だな?」
「え? う、うん。そうだよ。お父ちゃん……怒ってるよね」
 
 心配しているだけだが、子供には怒っていると受け取られるのだろう。
 親の心など、子には伝わりようがないのかもしれない。
 
「少しは親父の言うことも聞くんだな」
 
 娘は余程怖かったのか大人しく頷いた。
 グレイが手を差し伸べればその胸に縋って泣き出しそうだったが、それは仕事の内ではない。
 だからそれ以上何をするでもなく、ついてくるように言った。
 
「もう用はない。行くぞ」
 
 クローディアに声を掛けると、彼女はグレイの横に並んだ。
 二頭の獣は娘の後ろを守って警戒しながら歩いている。
 扉の外に出ても、行きにある程度片付けていたおかげか、モンスターの影は少ない。
 
「無事だったわ」
 
 水音にかき消されそうな小さな声でクローディアは告げた。
 それが自分に対する言葉であると気付き、顔は動かさず、視線だけを彼女に向ける。
 
「あなたは……もう、生きていないと思っていたのでしょう?」
「さぁな」
「期待するなと忠告したわ。覚悟を決めろと言いたかった?」
「こんな世だ。何があっても不思議じゃない」
「でも、無事だった」
「やけにこだわるな。俺の言葉が気に入らなかったか」
 
 クローディアは答えなかった。
 ただ、少し微笑んだような気がした。










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どこら辺をグレクロにするつもりなのか忘れました。<四話のコメント





20051010