[ 愛してとは言わないから ]




 テーブルの上の水差しが倒れたのを最後に音が全て遠ざかる。
 屋外で笑う子供の声も、屋台の売り文句も、町はずれにある鐘の音も。
 少しの衣擦れと水の滴る音だけがこの部屋を一杯にする。
 息遣いと、心臓の音は思っているほどには響いていないだろうから、世界の音はその二つだけ。

 こんなになっちゃうのって、ベッドの上だから?
 ジャンがアタシの上でびっくりした顔してるから?

 アタシはパチパチと瞬きを繰り返し、その間も逃さずにジャンの顔を見つめる。
 ジャンの方は、空中を豪快に泳ぐ視線で落ち着きがない。
 彼の場合、それが常と等しいんだけど、少なくとも話をするときは相手の目を見据えることを忘れないヒトだった。

「ねぇ」

 めいっぱいの甘えた呼びかけに条件反射か何かでこっちに視線をやりかけたのも一瞬で、慌てて天井の隅を凝視し始める。
 動物みたい、とアタシはクッと一度だけ声を上げて笑った。
 猫や犬があらぬ方向を見つめて動かないのとよく似ている。

 でもね、ジャン。
 一つ教えといてあげる。
 動物の世界では、目を逸らした方が負けなの。

 彼は間違いなく犬だなと思いながら、ジャンの喉元に手を伸ばした。
 くすぐれば気持ちよさそうに目を細めるのかな。服従のポーズでもとってくれる?
 もちろん、反応の方は過度なまでの驚きで一気に上半身を宙に投げ出し、結果としてカーペットの敷かれていない床にしたたかに頭を打ち悶絶する。
 のそのそと起き上がって、乱れた服を整える代わりに一枚二枚脱いでいく。
 ちっさな下着だけがアタシの体を隠してくれてる。
 こうなっちゃうとね、アンタが抱き締める以外にアタシの体を隠す方法なんてないのよ、なんて思った。

「馬鹿ね、アンタ。事故が事故でなくなって、そのまんま続きに突入でも、アタシかまわないのに。抵抗だって全然しなかったでしょ?」

 いつもの立ち位置逆転で見上げてくるジャンの瞳がぐらんぐらん揺れて、あらら、もしかして目が離せなくなっちゃってる?
 見てちゃいけないのに、本能が見ろ見ろってうるさく騒いでる?
 やったぁ、とか思っちゃっていいのかしら。
 ボンキュッボーンじゃないけど、オンナの体してんの、知らなかったでしょ。

「愛してるなんて言わなくていいよ? アタシが欲しいか欲しくないか、そんだけでじゅーぶんだもん」
「……そんなわけに行くか……」
「あっは、真面目」

 飢えた獣のような格好で、仰向けに転がったままのジャンに狙いをつける。
 ゆっくり腕を伸ばして、ベッドから床に手をついて、上半身からまず着地。
 そのまま体を支えて、下半身も床へ。
 ちょうどジャンの足の間に落ち着いた。

「じゃあ、言い方変えるね」

 息をするのやめちゃった?
 アタシが覗き込めば覗き込むほどに、ジャンってば息を詰まらせてるんだもの。

「アタシじゃ駄目? アタシを好きにはならない? アタシはジャンが好きよ」

 最後に付け加えた本音が、ちゃんとホンモノに聞こえるのか、実は不安。
 他の女の影なんて見なきゃよかったのよ、知らなかったら、たぶんホントのホントに自信満々でいられるもの。
 彼がアタシに持ってくれてる好意ってヤツを完璧に恋愛感情まで高める自信、あるもの。
 そしたら、誘惑とかじゃなくて、素直に好きって言って、素直にぎゅってしてって言えるよ。

 ジャンは泣きそうな顔してる。
 泣かせたいワケじゃないんだから、まいっちゃうっての。

 愛してくれなくてもいいのに。
 この瞬間だけ全部忘れて、アタシのことだけ考えてアタシのことだけ見てくれたらそれで。

「ごめん、俺が悪かった。全然知らなくて……情けないもんだ」

 突然裸の背中に回された腕に今度はアタシが息を止めた。

「ナニソレ、馬鹿にしてんの?」
「違うよ」

 口から出る言葉とは裏腹に、ゾクゾクしたものが迫り上がってくる。
 よくわかんないけど、アタシ、彼の誘惑に成功したのかしら。
 謝られちゃったけど、ジャンは全然抱き締める力を緩めてくれなくて、胸の上に感じる荒い息と時折触れる口唇に、こっちが絡め取られそう。
 よく考えてみれば当たり前か。
 だって好きなのはアタシの方だもん。
 好きな男に抱き締められて、どうにかならない女なんていないでしょ。

「ミリアム、その」
「んー?」
「俺もお前のことが好き……って言ったら信じてくれるかい?」

 それは、初耳。

「嘘でも信じちゃうわ、アタシ」

 こんなときにいけしゃあしゃあと嘘つけるほど、器用なヒトじゃないけどね。













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3CP本に載せようと思ったものの、雰囲気がアレなのでサイトアップ。



2006.6.2