[ 雲を掴む死 ]




 君を想うことは、あってはならぬこと。
 君を想ったとしても、君は決して振り向くことなどない。
 君を想うのが自由だとしても、捧げた先に見返りなど要求しない。

 それが、俺の、君への、愛の、証。



 美しいものだろう?
 なぁ、エレン。





 それはほんの一瞬の油断。
 おそらく、そう呼んで差し支えのないものだった。
 何に気を取られていたのか、痛みが身体を襲った瞬間に忘れ去ってしまったが……些細なことだったのだろう。例えば、地面に生えた緑の草が目に留まったとか、戦いの最中でも小鳥は鳴くものなのだと思ったとか、落ち葉が目の前で散っていったとか。
 奇妙なことにそれを「何とも自分らしい」と思った。特別、注意力が散漫だったわけでも、集中力が途切れやすいタチでもなかった。しかし結局は油断から招いた攻撃、思っているよりもずっと、自分は慢心していたに違いない。
 実に愚かな男だったな、トーマス・ベント。
 ……まだ過去形で話すには早い。この瞬間は生きている、とりあえず。だから考えることが出来るというのに。気持ちの上では、まるでとうの昔に死人になってしまったかのようだ。
 我ながら笑ってしまう。
 そして一瞬の思考の多さに驚いた。
 攻撃され、地面に倒れ込む、1、2秒に浮かんだ言葉の群れだった。
 エレンが呼ぶ俺の名が遠くに聞こえる。
 ……あぁ、君が呼ぶというだけで、俺の名が素晴らしいものに思えてくる。いつだってそうだった。
 緩慢な動きながら、俺は手を上げようとした。
 大丈夫、だから心配するな。

 しかし、思ったように手は動かない。
 ずっしりと鉄の重厚な手袋でも付けているかのように重く、指一本を動かすことすら出来なかった……その動作が感じられ……なかった。まさか俺の腕がなくなったわけではないだろう?
 瞳だけを動かして、自分の腕を確認する。
 腕は無事だった。存在している、という意味においては。しかし肩から脇腹にかけてが……具体性を排除し、簡単に言ってしまえば『ひどかった』。直視に耐える状況ではなかった。道理で腕が上がらないわけだ。
 冷静に判断を下すと同時に、自分が寒気を感じていることに気付く。
 焼け付くように熱い傷口とは裏腹に、さらさらと砂が落ちていくように体温が奪われていく。

「早くトムを回復させて!」

 エレンの悲鳴が何度も何度も頭に響く。
 だんだん、彼女の言葉が一度だけだったのか、繰り返されたのかも、明確に掴めなくなってきた。

「駄目だ……治らない……何でだ、クソッ!」
「……血を失いすぎたんだ。トーマス自身の肉体が回復についていけないんだろう」
「それじゃ、手遅れってこと?! そんな……」
「トーマス、しっかりしろ! 生きるんだ!」

 エレンは……どこだ?
 視線を彷徨わせて、目に馴染むあの姿を探す。

「トム……!」

 暖かい……再生光だろうか……いや、エレン? エレンが俺に触れている?
 それを認識して、俺は傷を受けていない側の手……つまり右手をエレンの手に重ねた。

「トム!」

 涙を抑えた表情には、見覚えがあった。
 まだ幼かった頃、熱病に罹ったサラを寝ずに看続けたあのときの表情そのもので。
 見ているだけで胸が痛かったことを思い出す。同時に「サラは大丈夫だよ」と力づける台詞すら言えなくなってしまった自分の無力が蘇ってきた。
 ……確か、それを懸命に説いていたのはユリアンの方だったか。

『大丈夫、大丈夫だよ。サラがこんなことで負けるわけないだろ? エレンが大丈夫だって言ってやれば、サラだって安心するんだ。そばには俺だって、トムだっているんだし、ね?』

 俺の思いは、君にとって一体どんな意味をもたらしたのだろう。
 俺は君にとって、必要な存在であれたか?

「……エレン、愛してるよ」

 うっすらとした視界の中、エレンが体を強張らせたのを感じる。

「君が決してそれに応えることが出来なくても、かまわなかった。幸せにおなり、エレン」
「……やめてよ、最期の言葉みたいに、言わないで」
「バカだなぁ、エレン。最期なんかじゃないさ」

 最期になんてしたくないんだ、本当に。
 それは強がり。それは一筋の願望。それは足掻くこの命。

 生命力にあふれた君と、死に行く俺と、なんと対照的なことか。

 ふと、手を伸ばす。
 美しい首。
 鍛え上げられた、肉体の織りなす、曲線。

「エレン……」

 ああどうか。どうか俺と一緒に。

「な、に……?」

 最後の力を振り絞れば、その首を掴むことくらい出来るだろう。
 入口を塞ぎ、無理矢理にでも天上の世界へ連れていくことくらい。
 君は戸惑ったまま、だけど抵抗はせずに、俺の名前を何度か呼ぶだろう。
 最期には、アイツやサラの名前を残すかもしれない。
 それでもいい。

「……トム、やめて……」

 嫌ならば、この腕を無理矢理にでも退けてくれ。
 それができるのならば。
 君の性格……君の性質は良く知っているんだ。
 一度その内に受け入れた存在は、決して傷つけることなんてできない。親鳥が雛をその羽の庇護に置くように、君は愛したもの全てを、何があろうと守る人だから。
 何とも困った、不安定な性質。
 強さの向こう側の真実に、どれほどの人間が気付けたか。
 放っておけなくて、見守り続けたくて、君の人生に指針を与えたくて……それ故に俺は君に恋したのかもしれない。
 君を愛したのかも、しれない。

「ごめん……雲がそこにあるように、見えた……」

 消え入りかけた声をエレンは確かにつかみ取ったらしい。見え透いた嘘にエレンは「そう」とわずかに呟き、微笑んだ。(細められた瞳を微笑みと呼んでも構わないだろうか?)

「あぁ、空が綺麗だ」

 果てなく広がる空に手を伸ばす。
 徐々に薄暗くなる視界に青を焼き付けた。
 君を連れていけない、連れていきたくない、だから、最期は君の顔など見ない。
 面影の欠片すら、暗い世界に持っていきたくない。
 このまま流れ行く白い雲を掴めたら、俺はそれを代わりとしよう。





 君を愛している。
 君を想っても、それはただの自己満足に近いものだったけれど。
 君を愛している。
 この愛は報われることなく、けれど君を救うものであって欲しい。

 幸せにおなり、エレン。









__________________________

一度書いてみたくて。
心にはいつも誰かへの思いやりを抱く人。
冒頭の言葉はユリアンへの配慮、エレンへの希望、自分への戒め。

こういうトムエレが好きなんです……。



20030926

本来なら血をボコボコ吐いてるんでしょうけどね(苦笑)<いいからそういう表現は!